プロフィールにもありますが、私は兼業で美術作家もやっています。
アートの作品制作では食べていくのが難しいので、お金のためにデスクワークもおこないつつ、不定期で作品を発表するというスタイルです。
※本業サイトはこちらでは公表していません。
サイト作成やブログ運営自体もなかば趣味として、見様見真似でけっこう昔からやっていました。
(かつてはHTMLタグ打ち派)
その延長で、猫が病気になったのをきっかけに始めた猫ブログもすでに6年目を迎えます。
本業と猫
作品制作と猫。
どっちをとるかと聞かれたら、下手すると最終的には猫とっちゃいそうで、我ながら危機感を感じます。
本当は制作が本業などと言ってるくせに、それってどうなんでしょうか。
プロにあるまじき…というか、この業界のプロは定義が難しい。
特に日本の場合は、どんな売れっ子アーティストでも、基本作品だけでは食べられないので。
でももし個展の展示期間中に、猫が危篤になったとしたら、どうでしょうね…。
何かのチャンスがあって、ものすごく勝負をかけてる展示だとしたら、猫より展示をとっちゃうのかもしれませんが。
それほど重要度が高くない展示だったら、猫をとるかもしれないな………。
こればっかりは、そのときにならないとわからないですね。
ちなみに妹の結婚式は、自分の個展とかさなったので欠席しました。
出られなかったのがいまだに悲しいです。
だって妹の旦那さんが、どうしても自分の両親の結婚記念日に式をあげるといってきかないんですもの……。
結婚式の話が出たときから、「個展確定してるのでこの週だけはなんとか避けてほしい」とお願いしてたのに。
私の意見は完全スルーされました。
受験生と猫
私が高校3年生だったころのことです。
美大を目指していたので、受験のため専門予備校に通っていました。
そして当時うちにいた猫は猫エイズを患っており、すでにいつ亡くなってもおかしくない容態でした。
ときは夏期講習期間の真っ最中。
夏期講習って、現役予備校生にとってはかなり、それこそ本気で勝負かけてる時期なのですよね。
一般大学の受験も同様かと思いますが、現役で受かれるかどうかって、けっこうこの夏の成長にかかっているものです。
私はいわゆる芸大や五美大の油絵科を目標にしていたので、予備校での所属は油絵コース。
その日の課題は着衣の人物油彩で、1日(たしか実質6~7時間くらい)でF15号を仕上げるというものでした。
制作時間中、とつぜん講師が私を呼びにきて、そのまま教官室へ連れていかれました。
それは、猫がさっき息をひきとった、という家からの電話でした。
それまで自分の命よりも大切だと思っていた、大切な猫。
涙がとまりませんでした。
会いに帰りたい。でも…
このまま帰ってしまうと、今てがけている絵は未完成になります。
実は私はそれまでずっとデッサンが苦手で、特に人物はいつもプロポーションが狂ってばかりでした。
でもこのときは何か、いつもとちがう手ごたえがあって、このまま未完成で帰ってはいけない気がしたのを覚えています。
すごくすごく悩んで、とてもとても迷いましたが、結局私は「帰らず仕上げる」という選択をしました。
なんとか絵を描き終えて、帰る途中の駅のホーム。
あのときの灰色の風景と重い体は、たぶん一生忘れないでしょう。
そしてその一件以来、私の中では、なにかの覚悟が固まりました。
猫にもらった成長
その絵は、私にとっては初めて、先生にほめてもらえた人物画となりました。
デッサンはまだすこしおかしいけれど、だいぶバランスが取れてきたし、人物の表情もなにかひきつけるものがある、というような講評でした。
そのあと私はなぜか、自分でもぼんやり実感できるくらいに、人物画が上達していったように思います。
人物油彩だけですが。
静物画や石膏デッサンなどは相変わらずヘタクソでした。
そして秋の油彩コンクール、モチーフは人物でした。
そこで私は、幸運にも1位になることができました。
当時通っていたのは地方都市の小さな予備校でしたが、タイミング的にはのちに芸大に入った超絶技巧の多浪生が大勢いた時期です。
ぺーぺーの現役で、ついこの前までへたっぴだなんだといわれていた私が、コンクールで1位。
私だけでなくまわりもたぶん、全く予想してなかったことと思います。
まあ本当のことをいえば、結局1位をもらったのなんて、現役のそのときたった1回だけですが。
本当に奇跡のめぐりあわせみたいなものだったのでしょうね。
そのあとの(たぶん)幸運
その後私は、そのままストレートで美大に入ることができました。
もちろん第一志望の芸大には受かれなかったのですが、いわゆる五美大といわれるところに現役で入れたのは、私ていどの実力ではかなりラッキーだったと思います。
美大に入ってからは、現役ゆえの技術力不足がずっとコンプレックスでした。
うちの大学は一浪以上が多数派だったので。
現役なのを先生にバカにされたり(おかしな世界だ)、思うように描けなくて悔し泣きしたこともありました。
それでも、入って出てしまえばこちらのもの。
なんだかんだと美術作家のはしくれとしてずっと続けてきてみると、そんなのはとるにたらないことだったな、という気がします。
多浪して芸大に入った、超絶技巧の先輩たちのほとんどは制作をやめてしまいました。
私がほそぼそと続けてこれたというのもまた、幸運以外のなにものでもないのかもしれません。
一般的な意味では、はやめに更生した先輩たちのほうが賢明だったということもできますが…。
こうやって考えると、あのときの猫は自らの存在で、私の人生の後押しをしてくれたのかもしれませんね。
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